スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告
▲ pagetop
四国の前に・・・
自転車で四国へ行ってきた。

身も心も疲れ果て、一言でいえば「疲弊」。

この疲弊話はまた後日記すとして・・・

四国の道中で、この数カ月間考えていたことの終着点が見えかけた。
今回はその結論めいたものを忘れないうちに書き留めたい。




ここ数カ月の考え事とは「教師としての部活」について。
重い題材かもしれない。きっと正解はないことだろう。
でも自分の中で何か答えが見つかればそれは信念に変わる。

ということで始めたい。

まず話の要は「持続」あるいは「やりとげること」。

「石の上にも三年」ということわざがある。
ここでいう数的な意味での三年は社会で十年、もしくは五年というように長いスパンに言い換えられることがある。

本当に三年、五年、十年と続けることは大切なのか。ここではおもに十年を基本として考えたい。


多くの職人は「十年で一人前」などいう言い方をするだろう。
この言葉にはおそらく深い意味がある。

ただ単に技術を習得するのであれば器用な人間ならば十年もかからずに習得するだろう。下手すれば一年でも・・・

フリーターはどうだろう。そこの職場で盗めるだけの技術を盗めばすぐに次の職を望む。そのわけは新しい出会い、新しい技術の習得、違う才能の発見などだろうか。

ここから考えたいのは「十年」の内訳だ。

大工であれば鉋がけから始まるだろうか。
エンジニアであれば物理や化学の勉強からか。

エンジニアの場合は大工とは少し違う。

エンジニアが物理や化学を学ぶのは中学、あるいは小学校からであり、大学まで行けばおそらく十年近くの月日をかけて知識や技術を身につけてきているはずだ。
そして、企業に求める技術を身に付けたものが採用されるのかもしれない。
それだけの技術をそれだけのスパンをかけて学んできても、現場の人々は「一人前になるには~年かかる」というだろう。

はっきりいって十年以上かけて学んで、やっと就いた職場で「あと十年」と言われたら計二十年精進しなければならないなんて驚きだ。

では「十年」はどんな理由からでた数字だというのか。
おそらくその理由は、技術を習得するためだけの単純な目的からは成立していない。
その道何十年という職人が手取り足取り教えれば技術習得にそんなに時間がかかるだろうか。
そんなに時間のかかる技術なら専門学校でも大学でも教えきることはできない。

きっとその十年は精神を鍛えることに大半の時間が割かれるのだろう。

「十年」という年数は新人が礼儀、精神など仕事に臨む心構えが出来上がるのに技術を学ぶ時間を足して、経験的に算出した数字だろう。



いくら技術が早く成熟しても、その技術を扱う心がなければ意味をなさないだろうし、仕事自体が粗くなるだろう。
いくら技術を持っていたってその技術を使う相手は必ずお客であり、人だから礼儀や人望が必要とされる。



さて、次はこれを部活に当てはめたい。

部活、特に自分のしてきた陸上に当てはめたい。

自分の出した結果からいえば、いくら足が速くても、いくら遠くに投げれても、いくら遠くに跳べても人間的に認められなければ意味ないだろうし、陸上で培った能力がその後の人生に活かされなければ意味がない。


もちろんその子の技術を伸ばせるだけ伸ばすことは重要な課題だろう。
しかし、技術を教えるだけでそれが向上しているのであればその子の人生を左右するような出来事としては薄い。

さっきの職人の話のように、陸上の技術を教えて速い子供を作るのは簡単だろう。自分の思い通りの練習をさせて、こなせるように励ませばいい。

しかし、問題はこれから先も使える技術なのかということだろう。

魚を釣ってあげるか、釣り方を教えてあげるかの違いは大きい。


やはり大切なことはその子が部活でした経験をその先の人生でどう活かせるかということである。
きっとこの側面は学校での授業もいっしょだろう。

速い子や陸上が好きな子を作るのなら、機嫌を取りながら、競技を嫌いにならないように練習させればよい。しかし、これでは子どもたちはただ単に好きなことをやっているだけであって、嫌いなことや壁に対抗する力は養えるのだろうか。

先の人生で活かせる技術を養わせるために教師は部活や授業で時には厳しく教えるが、それを子供たちは「何のためにするのかわからない」という。

「何のためにするのかわからない」

それが当たり前だ。教育はそういうものなんだから。

教師がこれから教える知識をすべて知っているなら子供たちは学校へ行く必要がない。

問題は習う前に「必要あるかないか」を考えてしまうことだろう。

やってからじゃないとそのありがたさはわからない。
まるで八十八か所のようだ。

たとえ部活がつらくても、途中でやめてしまっては意味がない。
最後まで行かないとそのありがたさはわからないんだから。



さあ、そろそろまとめかな。


つらい部活であっても、最後にその先で役立つ技術を学べるようにするためには子供たちが精いっぱい頑張れる環境を提供することが最低条件だろう。

「十年精進する。」この十年には困難が凝縮されているはずだ。辛いこともあるけれど必ず何かの役に立つ。そうでなければ「十年」という期間を課す意味がない。

つまり、何か役立つ技術を提供するためには子供たちに「困難」を与えなければならない。
端的にいえば「つらい部活」の構築だろう。
そして必要なのはそれを乗り越えたあとの役立つ技術の保証だろう。

このような「困難」を乗り越えるには真剣に頑張ってもらわなければならない。
生半可な気持ちで乗り越えられるな壁を用意するなら意味はない。

やり遂げなければわからない。

これは一番教育的な考え方だと思う。

やり遂げることはつらくて、やめたくもなるかもしれない。しかし、乗り越えなければわからないありがたさがある。

だから、教師も真剣に取り組まなければならない。
真剣に競技について勉強しなければならない。

人生で役立つ技術を直接教えるのは難しいから、部活を通して教えるしかない。
だから子供たちが頑張れる場を作らなければならない。
だから教師は真剣に部活を運営しなければならない。

結局は職人が十年かけて技術を教え、精神を磨きあげるように、
教師も何年もかけて技術を教え、精神を鍛えなければならない。

たぶん生徒に頑張ってもらうために、教師は頑張るんだろう。
スポンサーサイト
未分類 | Comment : 4 | Trackback : 0
▲ pagetop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。